どんな時も変わらずに支えてくれる存在。当たり前ではない、その温かさに感謝を込めて。
帰る場所があるということ
「おかえり」
玄関の扉を開けると、キッチンから漂う出汁の香りと共に、聞き慣れた声が飛んでくる。ただそれだけのことが、どれほど尊い奇跡なのか。若い頃の私は、それを理解していなかった。
実家を出て一人暮らしを始めた頃、私は「自由」を謳歌していた。誰にも干渉されず、好きな時間に起き、好きなものを食べる。その気楽さが心地よかった。親からの電話を面倒くさがり、帰省も年に一度するかしないか。家族という存在は、そこにあって当たり前の「空気」のようなものだと思っていた。
しかし、社会の荒波に揉まれ、理不尽な現実に打ちのめされた時、ふと心が折れそうになる夜がある。誰も自分のことなど見ていないのではないかという孤独感。そんな時、無性に聞きたくなるのが、家族の声だった。
言葉にしなくても伝わるもの
久しぶりに実家に帰った時のことだ。仕事で大きなミスをして、自信を喪失していた時期だった。私は何も言わなかった。心配をかけたくなかったし、自分の弱さを見せるのが恥ずかしかったからだ。
けれど、母は私の顔を見るなり、「顔色が悪いわね。ちゃんと食べてるの?」と言って、私の好物ばかりを食卓に並べてくれた。父は多くを語らなかったが、私が好きだった銘柄のビールを黙って冷蔵庫から出してきて、晩酌に付き合ってくれた。
「まあ、なんだ。無理はするなよ」
父の不器用な一言と、母の温かい料理。それらが、冷え切っていた私の心をゆっくりと溶かしていった。理由なんて聞かなくていい。詳細な事情なんて知らなくていい。ただ、「あなたがそこにいてくれるだけでいい」という無条件の肯定。それが家族なのだと、その時痛感した。
彼らは、私の社会的地位や年収、成果なんて気にしていない。ただの「私」として受け入れ、愛してくれる。その絶対的な安心感が、私が再び外の世界で戦うための鎧(よろい)となり、盾となる。
当たり前ではない日常
ふと、両親の背中が以前より小さくなっていることに気づく。白髪が増え、歩く速度がゆっくりになった。永遠に続くと思っていた「当たり前」の日常が、実は有限の時間の上にあるのだという現実を突きつけられる。
「いつもそこにいる」という安心感に甘えてばかりではいけない。いつかその場所がなくなった時、私は一人で立っていられるだろうか。そして、今まで受け取ってきた愛を、私は彼らに返せているだろうか。
最近は、意識して連絡を取るようにしている。何気ない日常の報告や、季節の果物を送ること。照れくさくてなかなか言えなかった「ありがとう」という言葉も、少しずつ口に出せるようになってきた。
見えない糸で結ばれて
家族の形は、時間と共に変わっていくかもしれない。それでも、魂の深い部分で結ばれた「縁」は決して切れることはない。
私が私らしくあるために、帰れる場所があるということ。それは、人生という長い旅路において、最強の武器であり、最上の癒やしだ。
今、この文章を書きながら、遠く離れた実家の灯りを思う。テレビを見ながら笑い合っている両親の姿を想像する。その温かな光が、いつまでも消えないことを祈りながら。
「いつもありがとう」
心の中で呟いてみる。次は帰った時に、直接目を見て伝えようと思う。