音楽

祖父のレコード

祖父のレコード

針を落とすと流れる、懐かしいメロディ。世代を超えて、同じ音楽に心を揺さぶられる不思議な感覚。

埃被ったダンボールの中の宝物

祖父が亡くなって一年が過ぎた頃、実家の整理をすることになった。祖父は無口で厳格な人だった。書斎には近寄るなといつも言われていたため、私にとってそこは未知の領域だった。遺品整理という名目で初めて足を踏み入れたその部屋は、古びた紙とタバコの匂いが染み付いていた。

本棚の整理を終え、押し入れの奥を覗くと、埃を被った大きなダンボール箱がいくつも積み上げられていた。重い箱を引きずり出し、ガムテープを剥がす。中には、正方形のジャケットがぎっしりと詰まっていた。レコードだ。

「おじいちゃん、音楽なんて聴いてたんだ」

意外だった。いつも難しい顔をして新聞を読んでいる姿しか記憶になかったからだ。ジャケットを一枚ずつ手に取ってみる。ジャズ、クラシック、そして昭和の歌謡曲。マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、美空ひばり。ジャンルは多岐に渡っていたが、どれも大切に扱われていたことがわかる。

箱の底の方から、一台のレコードプレイヤーが出てきた。木製のキャビネットに収められた、レトロなデザインのプレイヤーだ。電源コードを繋いでみると、驚いたことにまだ動いた。ターンテーブルがゆっくりと回転し始める。

針を落とす儀式

私は適当なジャズのレコードを選び、盤面をクリーナーで拭いた。そして、震える手でトーンアームを持ち上げ、慎重に針を落とす。

「プチッ、パチパチ……」

最初に聞こえてきたのは、スクラッチノイズと呼ばれる雑音だった。デジタルのクリアな音に慣れていた私の耳には、それがとても新鮮で、どこか温かく響いた。そして次の瞬間、部屋の空気が一変した。

スピーカーから流れ出したのは、太く、艶やかで、実在感のあるサックスの音色だった。まるで目の前で演奏しているかのような、圧倒的な臨場感。デジタルの圧縮音源では削ぎ落とされてしまう、音の「余韻」や「空気感」までもが再生されているようだった。

私は床に座り込み、その音に聴き入った。無口だった祖父が、夜な夜なこの部屋で一人、この音楽に耳を傾けていた姿が目に浮かぶようだった。彼はこの音楽を聴きながら、何を思っていたのだろう。仕事の悩みか、家族のことか、それとも若かりし頃の思い出か。

世代を超えた共鳴

レコードを聴き進めるうちに、不思議な感覚に襲われた。半世紀以上前に録音された音楽が、今の私の心にダイレクトに響いてくる。時代も、国境も超えて、良い音楽は色褪せないということを、理屈ではなく肌で感じた。

特に印象的だったのは、ビル・エヴァンスのピアノ曲だった。繊細で、どこか哀愁を帯びたその旋律は、今の私の心境に驚くほどマッチしていた。祖父もまた、孤独や悲しみを抱えた時、この曲に救われていたのかもしれない。

「音楽はタイムマシンのようだ」と誰かが言っていたが、まさにその通りだと思った。このレコード盤に刻まれた溝(グルーヴ)には、演奏されたその瞬間の空気だけでなく、それを聴いてきた祖父の時間も一緒に封じ込められている。

針がレコードの上を走る物理的な運動が、電気信号に変わり、空気の振動となって私の鼓膜を揺らす。その一連のアナログなプロセスには、生命の鼓動のような温もりがある。ボタン一つで曲を飛ばしたり、シャッフルしたりできるデジタル音楽も便利だが、A面が終わるまでじっくりと腰を据えて音楽と向き合う時間もまた、贅沢なものだ。

受け継がれる「音」

私はその日、数枚のレコードとプレイヤーを自宅に持ち帰ることにした。スマートフォンで手軽に音楽が聴ける時代に、わざわざ手間のかかるレコードを聴く。それは、祖父との対話の時間を持つことと同義だった。

週末の夜、ウィスキーを片手にレコードに針を落とすのが、私の新しい習慣になった。ノイズの向こうから聞こえる音に耳を澄ませていると、背後に祖父が座っているような気配を感じることがある。言葉を交わしたことは少なかったけれど、同じ音楽を愛し、同じ旋律に心を動かされることで、私たちは確かに繋がっている。

レコードジャケットの角は擦り切れ、盤面には細かな傷もある。しかし、それは欠陥ではなく、歴史だ。祖父が愛し、守ってきたこの「音」を、今度は私が守り、いつか次の世代へと受け継いでいきたいと思う。

針を落とすと流れる、懐かしいメロディ。それは、私と祖父を繋ぐ、見えないけれど確かに存在する「縁」の糸なのだ。