道具

手作りの万年筆

手作りの万年筆

旅先で出会った職人が作った一本。使うたびに、木の温もりとインクの香りが心を落ち着かせてくれる。

旅の途中で出会った、運命の一本

その万年筆との出会いは、まったくの偶然だった。ある秋の日、あてもなく訪れた山間の小さな町。石畳の坂道を登りきった先に、ひっそりと佇む古い工房があった。「木工芸」と書かれた看板は風雨に晒され、文字が掠れかけていたが、なぜか心惹かれるものがあり、私は重い引き戸を開けた。

店内には、木の香ばしい匂いが充満していた。床には削りくずが散らばり、作業台の奥では白髪の職人が黙々と木に向き合っていた。彼は私が店に入ったことに気づくと、眼鏡の奥の目を細めて小さく会釈をした。

「どうぞ、見ていってください。何もないところですが」

その声は、年輪を重ねた木のように深く、温かかった。棚にはスプーンや器など、様々な木工品が並んでいたが、私の目はショーケースの隅に置かれた一本の万年筆に釘付けになった。それは、決して派手な装飾が施されているわけではなかった。しかし、磨き上げられた木の肌は、照明の光を柔らかく吸い込み、まるで内側から発光しているかのような存在感を放っていた。

屋久杉の記憶

「お目が高いですね」

いつの間にか職人が私の隣に立っていた。彼はその万年筆をショーケースから取り出し、私の手の上に乗せた。

「それは屋久杉です。しかも、ただの屋久杉じゃない。土埋木(どまいぼく)と言ってね、何百年もの間、土の中に眠っていた木なんです」

手に取った瞬間、驚くほどの軽さと、手に吸い付くようなフィット感に息を飲んだ。ひんやりとしているはずの木が、私の体温をすぐさま受け入れ、温かさを返してくる。それはまるで、長い眠りから覚めた木が、再び呼吸を始めたかのようだった。

職人は語ってくれた。屋久杉の木目の美しさ、加工の難しさ、そして何より、木が持つ「時間」の重みについて。数千年を生きた木が、さらに数百年の眠りを経て、今こうして万年筆という形になり、私の手の中にある。その事実に、私は震えるような感動を覚えた。

「この木目はね、二つとして同じものはないんです。人間と同じですよ」

その言葉を聞いたとき、私はこの万年筆を連れて帰ることを決めた。これは単なる筆記具ではない。私の人生という物語を共に綴る、パートナーなのだと直感したからだ。

書くこと、それは自分と向き合うこと

自宅に戻り、さっそくインクを吸入した。選んだのは、深い森を思わせるダークグリーンのインクだ。キャップを外し、ペン先を白い紙の上に滑らせる。カリッ、サリッという微かな音と共に、インクが紙に染み込んでいく。

その書き味は、今まで使っていたボールペンやデジタルのタイピングとは全く異なるものだった。ペン先の絶妙な弾力が、指先の微細な力の強弱を受け止め、文字に表情を与えていく。止め、はね、払い。その一つひとつに、自分の感情が乗っていくのがわかる。

不思議なことに、この万年筆で文字を書いていると、思考が整理され、心が凪いでいくのを感じる。キーボードを叩く速度では捕まえきれない、浮かんでは消える泡沫(うたかた)のような感情や、言葉にならないニュアンス。それらを、この万年筆は丁寧にすくい上げてくれるのだ。

現代はスピードの時代だ。効率化、即時性、生産性。そんな言葉が日々飛び交い、私たちは常に何かに追われるように生きている。メールは瞬時に届き、チャットアプリではリアルタイムの会話が求められる。そんな中で、わざわざキャップを外し、インクの残量を気にしながら、ゆっくりと文字を綴る行為は、一見すると非効率の極みかもしれない。

しかし、その「手間」にこそ、豊かさが宿っているのではないだろうか。インクが乾くのを待つ時間、次の言葉を探してペンを止める時間、そして、書き終えた文字を眺める時間。その空白の時間にこそ、私たちは自分自身と対話し、心を取り戻すことができるのだと思う。

経年変化という楽しみ

使い始めてから数年が経った今、この万年筆は購入当初とはまた違った表情を見せている。私の手の脂が染み込み、木肌はより深く、艶やかな飴色へと変化した。屋久杉特有の香りも、ふとした瞬間に鼻をかすめ、私をあの静かな工房へと誘ってくれる。

傷もついた。うっかり落としてしまった時の小さな凹みや、クリップの擦れ跡。しかし、それらすべてが、私たちが共に過ごした時間の証だ。新品の時よりも、今の姿の方がずっと愛おしい。

「モノを育てる」という感覚は、使い捨てが当たり前になった現代において、忘れ去られがちな喜びだ。修理しながら、手入れしながら、長く使い続ける。そうしてモノと人の間に「縁」が結ばれ、かけがえのない関係性が築かれていく。

この万年筆は、これからも私の傍らにあり続けるだろう。嬉しいことがあった日も、悲しみに暮れる夜も。私の心の揺れを、そのペン先で受け止め、紙の上に刻んでいく。そしていつか、私がこの世を去った後も、この万年筆は残り、誰かの手の中で新たな物語を紡ぎ始めるのかもしれない。

そんな悠久の時の流れに思いを馳せながら、私は今日もキャップを外し、静かにペンを走らせる。紙の上を滑る心地よい音だけが、夜の静寂に響いている。